発祥と背景

純文学と大衆文学の接近は、大正時代に菊池寛や久米正雄が家庭小説へ転身するのを背景に、芥川龍之介の1926年「亦一説?」での「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」[1]という気運に現れ始め、横光利一は「純粋にして大衆的な文学」という「純粋小説論」を提唱する。戦後すぐの頃に林房雄の「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」との発言があり、久米正雄が林房雄の作品について雑誌『新風』の座談会で「代表的な中間小説」と呼んだことが最初とされる。この時には「ポーからオー・ヘンリーまでの間を狙っている」ものと表現している。また山田克郎の1949年直木賞受賞の感想でも「林房雄氏の提唱される中間文学を仕事の場と考へている」と述べられた。

中間小説誌の誕生

久米発言の後の1947年に、5月に大地書房『日本小説』、9月新潮社『小説新潮』が創刊され、これらが最初の中間小説誌と言われている。『日本小説』では、「大衆的な広がりを持ちながら、芸術性を失わない小説」を開拓するため、武田麟太郎の「高い根底を持つ小説を狭い実験室から解放して、手を伸べている多数の所有にしたい」との言葉を引いて、新しい小説の分野を目指すとした。誌名のアイデアを出したのは水上勉で、創刊号の執筆者は、高見順、丹羽文雄、太宰治、林芙美子、関伊之助の変名を用いた川口松太郎など。『小説新潮』10月号では、「大衆小説とか純文学とかいうことばはもうなくしてもいいと考える」といった編集意図も述べられた。戦前から発行されていた大衆小説誌『オール讀物』『講談倶楽部』なども、戦後の復刊後は中間小説的な方向性に向かっていき、『別冊文藝春秋』もこの分野に参入した。1950年創刊の六興出版社『小説公園』は、広津和郎、室生犀星、武田泰淳などを起用。『日本小説』は坂口安吾『不連続殺人事件』連載などで評価を高めながらも、経営不振で2年半で廃刊となるが、『小説新潮』は部数を延ばしていった。 新聞小説においても、1947年6月からの石坂洋次郎『青い山脈』(朝日新聞)、林芙美子『うず潮』、丹羽文雄『人間模様』(毎日新聞)などが連載される。

 

第二次ブーム

当初の中間小説は風俗小説の同義語とも見られていたが、井上靖や松本清張の活躍とともに、時代小説や推理小説も呑み込んだものとなっていく。1958年多岐川恭が初めて推理小説で直木賞を受賞し、1961年『別冊小説新潮』の水上勉らの作品を掲載した「現代推理小説代表作集」という特集号が大いに売れ行きがよく、社会派推理小説が多く掲載されるようになる。

中間小説の作家

横光利一の提唱を受け継ぐ作家としては、「可能性の文学」を提唱した織田作之助や、『肉体の門』を発表した田村泰次郎などがいた。『小説新潮』初期に活躍した作家は、丹羽文雄、舟橋聖一、石坂洋次郎などで、続いて時代物から推理小説を書き始めた松本清張など。他に昭和30年代の人気作家として、柴田錬三郎、梶山季之、山手樹一郎、山岡荘八、源氏鶏太、石原慎太郎、井上靖、黒岩重吾などがいた。またポルノ作家と揶揄されて文芸誌から閉め出されていた時期の瀬戸内晴美も中間小説誌や週刊誌で旺盛に作品を発表した[2]。

批評・異説