発祥と背景
純文学と大衆文学の接近は、大正時代に菊池寛や久米正雄が家庭小説へ転身するのを背景に、芥川龍之介の1926年「亦一説?」での「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」[1]という気運に現れ始め、横光利一は「純粋にして大衆的な文学」という「純粋小説論」を提唱する。戦後すぐの頃に林房雄の「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」との発言があり、久米正雄が林房雄の作品について雑誌『新風』の座談会で「代表的な中間小説」と呼んだことが最初とされる。この時には「ポーからオー・ヘンリーまでの間を狙っている」ものと表現している。また山田克郎の1949年直木賞受賞の感想でも「林房雄氏の提唱される中間文学を仕事の場と考へている」と述べられた。





